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ナターシャ・アトラス『The Inner and The Outer』レビュー

ベルギーのアラブ系ヴォーカリスト、ナターシャ・アトラスの新作『The Inner and The Outer』

このアルバムはエジプト系イギリス人プロデューサー、サミー・ビシャイ(Samy Bishai)とのコラボレーションにより作られたアルバムですね。

ビシャイは、アルバムでいうと『Mounqaliba』(2010)以降、アトラスのアルバムには何かしらの形でかかわっているコラボレーターです。
ビシャイとの共同作業で作られたアルバムはそれ以前とはガラッと雰囲気が変わっていて、エレクトロニカとヒップホップを組み合わせたこれまで以上に実験的な音作りがされています。
(アラブ音楽ではあまり使われない)ピアノの多用やジャズミュージシャンとの共演など、他ジャンルとのミックスが強調されているところが特徴で、かなりアラブポップっぽさは減っていますね。

ピアノフレーズをグリッチっぽく切り刻んだり、ビートボックス音をサンプリングしてビートを作ったりよ、(割とありがちなアレンジとは思いますが)抜群にセンスが良くて効果的なアレンジが施されています。

『The Inner and The Outer』は基本はビシャイが作るトラックをバックにアトラスが歌っているのですが、参加しているゲストミュージシャンにもかなり重要なパートが割り当てられています。
参加ゲストは、アトラスと共演歴も多いウクライナ出身のイギリス人ジャズピアニストAlcyona Mickや、UKジャズを代表するグループ(とわたしが勝手に言っている)Spike Orchestraのメンバーであるトランペット奏者のヤズ・アハメド(Yazz Ahmed)、ビートボックス担当のジェイソン・シンといったミュージシャンたち。

アラブ音楽はオーケストラ編成になることもあったりとにかく「ゴージャス」で「アラブメロディと歌を格調高く響かせる」ことが主眼ですが、この『The Inner and The Outer』ではガラッと趣向を変えて、むしろインストパートの方に聴きどころも持ってきているんじゃないかと思うほどです。
特にアハメドの吹くフリューゲルホーンはこれまでのアトラスのアルバムにはないシリアスな雰囲気を加えていると思います。

このアルバムは「COVID-19のパンデミックによる社会が抱えている不安や不確実性、喪失感がコンセプト」ということなのですが、途中にはアンビエント作品なのかと思わせるようなパートもあり、静寂と空間を見事に表現されています。素晴らしいです。

そんな訳で、これまでのアトラスのファンが好むようなアルバムじゃない気はしますが、だからこそ価値があるのだと思いますね。

ナターシャ・アトラスがデビューした1980年代後半~90年代前半は、ワールドミュージック(という言葉がマズければエスニック・フュージョン)は今よりもずっと盛り上がっていたのだと思います。

彼女はそういったシーンの中心的な存在だったと思うので、その彼女が2021年のいまでも今作のような現役感のあるアルバムをリリースするというのは驚きですね。
たとえば、彼女の初期作品はNation Recordsレーベルからリリースされていたのですが、同じ時期に活躍したミュージシャンを見ると、例えばFun-Da-Mentalはもう活動すらしていません。
Asian Dub FoundationやTransglobal Undergroundはいちおう活動を続けていますが、かつてのアルバムの焼き直しとも言える作品が多く、「過去の人」感は否めないですし。

余談
このアルバムの平和な月明かりの雰囲気を表現した「Inner Stardust」という曲は、D’Angeloのアルバム『Voodo』に敬意を表して作られたそうです。
『Voodo』は、ビシャイの音楽制作にキャリアを通じて影響を与えており、彼はこの作品を現代のアメリカ音楽とアフリカの架け橋と考えているそうです。
正直、このアルバムに『Voodo』の影響はあまり見て取れないですが、面白いエピソードですね。