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マーサ・ヴァーダット(Mahsa Vahdat) :悪の枢軸の向こう側

もし音楽にヒエラルキーがあるとすれば、楽器演奏よりもヴォーカルがもっとも上位に位置することになるのだと思います。
そのヴォーカル唱法のおいて最も高度なテクニックを体系化したのがペルシャ(イラン)音楽だと言えます。
(とはいえ、「音楽にヒエラルキーがあるか?」どうかは議論の余地があるのですけど)

イランの古典声楽と言えばシャーラム・ナゼリやシャジャリアン、女性でいえばパリーサーなどが日本では有名ですが、それに続くような歌手の名前はなかなか話題にならないですね。わたしが詳しくないだけかもしれませんが。

ナゼリもシャジャリアンはもう70歳近いはずですが、まだ現役でアルバムリリースしていますし、イラン声楽を代表する歌手としていまだに名前があがりますしね。

Mahsa Vahdat『Enlighten the Night』

そんな中、イラン出身のヴォーカリスト、マーサ・ヴァーダット(Mahsa Vahdat)が今年2020年にリリースした『Enlighten the Night』はペルシャ音楽の良質な部分が聴ける良アルバムです。

マーサは2019年に妹のマルジャン(Marjan)とともにクロノス・クァルテットとの共演アルバム『Placeless』に参加しており、(クロノス・クァルテットのネームバリューもあり)絶賛され注目を集めました。

これまでの(「The Sun Will Rise」や「I Am Eve」のような)多くのアルバムではケマンチェやダフなどのイラン民族楽器をバックに古典声楽ベースのアレンジで歌っていたのですが、この『Enlighten the Night』もピアノ、ベース、ドラムというピアノトリオをバックに歌っています。

特にピアノが弾くコードが入っていることで、イラン古典声楽の特徴である微分音の特徴がかなり薄くなり、言ってみれば西洋のポップスっぽいテイストですね。
「Placeless」から続くボーダレス路線の延長線上にあるアルバムで、いわば企画モノということもできるでしょう。
それでも古典声楽に根ざしたテクニカルなヴォーカルコントロールを聴くことができます。

イラン古典声楽というとテクニカル指向というか、トレーニングで習得するような人間技とは思えないヴォーカルスキルを披露する、言ってみればスポーツのような側面もあると思います。例えるなら体操とかフィギュアスケートとか。

ですが、ヴァーダットのアルバムはもっとサウンド重視ですね。音楽的というかリスニングを前提として歌があざやかに響くにはどうすれば良いか、ということにすごく気をつかっているアルバムです。
ヴォーカルにリバーブをかけたりと録音や音処理にこだわって作られているところも新鮮ですね。イランの古典だとまともにミキシングされていないようなCDだってたくさんありますし。

「悪の枢軸」の向こう側

マーサ・ヴァーダット(Mahsa Vahdat)は1973年生まれ、イラン・テヘラン出身。

wikiによると彼女は伝統的なペルシャ語の歌をパリ・メレキとメフディ・ファラーに師事。また、セタールをラミン・カカヴァンドとマスード・ショアリに師事。1993年にテヘラン大学音楽学部で音楽の学士号を取得したということで、イラン国内でかなりアカデミックな音楽教育を受けた人です。

そういったバックグラウンドがあってか、彼女の曲のほとんどは彼女が作曲しています。
ペルシャ/イランの古い伝統音楽をそのままなぞるのではなく古典にインスパイアされた現代的な音楽を作っていて、彼女のアルバムを聴いた人は古いイラン声楽とは違う印象を持つだろうと思います。

1979年のイスラム革命後、女性がソロ歌手として公の場で歌うことが許されなくなりました。同じく女性で歌手のパリーサも長らくイラン国外には消息不明でしたが、国内で音楽を教えていたそうです。90年代ごろからはイランを離れ、ドイツに移住して音楽活動を続けています。
ヴァーダットも同じくテヘランに住んでいる時期は自宅でペルシャ語の声楽を教えていたそうですね。

ヴァーダットが国外で注目されたのは、2004年に当時のブッシュ大統領がイランを「悪の枢軸」と呼ぶなど、中東諸国への圧力を強めていったことへのプロテストとして作られたコンピレーションアルバム『Lullabies from the Axis of Evil』に参加したことがきっかけ。

『Lullabies from the Axis of Evil』は、ノルウェーのレコードレーベルKKVとプロデューサーのErik Hillestadとのコラボレーションで作られたのですが、Hillestadはその後のヴァーダットのすべてのアルバムをプロデュースすることになります。

※ただ『Lullabies from the Axis of Evil』というアルバムじたいは、いまあらためて聴いてみると「ワールドミュージック」的ともいえるエキゾチックな部分を強調されすぎていて、あまりヴァーダットの良さが出ているとは思えませんでしたけど。

Hillestadと、彼女の夫であり作曲家でもあるアタバク・エリヤシ(Atabak Elyasi)の2人が彼女のサウンドを支えるキーパーソンと言えるかも。

ヴァーダットとエリヤシ夫妻は2019年からカリフォルニアに移住し、ベイエリアのミュージシャンと交流を重ねているようです。ノルウェーと比べてもマーケットは大きく、フェスなどもたくさんありますから。

こういったコラボの中から新しいスタイルのイラン古典声楽のアルバムが聴けるとうれしいのですけどね。