カヤ・ドラクスラー(Kaja Draksler)はスロベニア出身のピアニスト兼作曲家で、彼女が全曲作曲しソロピアノで演奏した新作『In Otherness Oneself』の紹介
2020年にリリースしたカヤ・ドラクスラー・オクテット名義のアルバム『Out For Stars』はかなりお気に入りで、その年のベスト10に選んだくらいでした(こちら)
オクテットでは作曲家・バンドリーダーの側面が強く出ており、ピアニストとしてはあまり目立っていませんでしたが、今回は全曲ソロ・ピアノアルバムです。
ただ、一般的なソロピアノのようなストイックなアルバムではなく、ナレーションをサンプリングしたり、MIDIキーボードのピッチベンドでピアノの音程をぐにゃぐにゃ高低させたり、MIDIノートを連続で入力することによる人の指ではありえない高速の連打フレーズがあったりと、かなりコンピューター(MIDI)による加工がされている演奏ではあります。
そんな中でこのアルバムのコンセプトでいちばん特徴的なのは、「クォータートーン(微分音)ピアノ」の使用ですね。
微分音ピアノ
このアルバムは、一聴すると映画音楽のような、エモーショナルかつ静謐なピアノソロアルバムなのですが、スケールアウトしたような音やフレーズが、よくよく聴くとわかる程度にさりげなく挿入されているのですよね。
聴きすすめていると、ところどころで「ん??いまの音はなに?」と引っかかてしまいます。
このアルバムのクレジットを読むと
The quarter-tone keyboard was programmed by Gianluca Elia. The keyboard set-up was inspired by Cory Smythe.
と書いてありました。
これはつまり、1/4度の微分音を使ってスケールを組みなおし、それをMIDIキーボードに割り当てて演奏しているということのようです。
この微分音ピアノが、このアルバムを聴いた時の奇妙な感覚に大きな役割を果たしているようです。
1/4度というぴったりハマるようでハマらない微妙な音程を使うことで、なにか身をよじらせるような不思議な感覚におちいり、聴いていてついつい引き込まれてしまいますね。
イラン古典音楽のマカームなども平均律からは少しずれたスケールを使うのですが、それに近いのかも。
この微分音ピアノについては「コリー・スマイスにインスパイアされた」という記載もありましたが、確かにスマイスはイングリッド・ラウブロックのアルバム『Dreamt Twice/Twice Dreamt』でも微分音MIDIキーボードを使っていました。
実はこの話題は、以前にブログでも書いてたのですよね(こちら)
ラウブロックの『Dreamt Twice/Twice Dreamt』はラージ・アンサンブルのアルバムであり、コリー・スマイスの微分音ピアノもかなり限定的な使われ方でした。
ですが今回のカヤ・ドラクスラーのアルバムを聴くと、微分音が全編にわたって使われており、
「あー、微分音ピアノってこういう使い方をするのね」
と、やっと「わかった」気になりましたね。
実際のところドラクスラーはこのような微分音ピアノを専門的に弾いてきたわけではなく、彼女が昔から培ってきたピアノの知識やテクニックについては、その多くが使えない状況での演奏だったと思います。
これはつまり、
「慣れ親しんだツールを使ってクリシェのように演奏するのではなく、手探りの中で試行錯誤する、その姿・その過程こそが演奏に輝きを与える」
と、そういう考えなんじゃないですかね。
考え方としてはジャズのアドリブに近いかも。
たとえば、もしジャズミュージシャンが「自分は、これまでに自分が吹いた中でベストのアドリブフレーズを持ってるから、今日もそれと同じように吹くよ」と言ったら、「おいっ!」って怒られるでしょう。
別の例ですが、web記事か何かで読んだジム・ホールのギターレッスンの話。
先生であるホールに自分の持てる限りのテクニックを披露しようとする生徒に対して、ホールは
「きみ、なかなかやるね。じゃあ今度はこれで弾いてみてよ」
といって、ギターのチューニングを狂わせて弾かせたそうです。
これも「クリシェでない演奏」に生徒の目を向けさせるためだったのかも(ただホールが意地悪な先生だっただけかもしれませんが)
もうひとつ微分音ピアノといえば、このブログで取り上げた中では、ハフェス・モディルザデーがクリス・デイビス、クレイグ・テイボーン、タイショーン・ソーリーという3人のピアニストに、微分音チューニングしたピアノを弾かせたアルバム『Facets』というのもありました(こちら)
この時も、モディルザデーは微分音ピアノをレコーディング当日に初めて弾いてもらったそうで、これも「初めて演奏する時のひらめき」をとらえようとするひとつの試みだったのかも。
アドリブソロと同じで、手探りの中での演奏はうまくいくこともあればそうでないこともあるのでしょうけど、「だからこそ」その演奏に価値があるということじゃないですかね。
ドラクスラーの『In Otherness Oneself』はそんなことを考えさせられるアルバムでした。
追記
彼女はいつの間にか髪をベリーショートにしていたのですね。似合っていますけど。