昨日、あいちトリエンナーレの表現の「表現の不自由展・その後」が再開されましたね。
再開についてはここでは書きませんが、再開に賛成する人が良く言う「不快な表現もアートである」と言う言説について、そのカウンターとして面白い動画がSNSで紹介されていました。
SNSにアップされているのと同じ方が動画に日本語字幕もつけているようです。
ちょっと抜粋します。
ミケランジェロは「ダビデ像」を1つの岩から削り出した。一方、ロサンゼルス・カウンティ美術館は1つの岩を展示した。340トンの単なる岩である。これほどまでにアートの水準は下がった
今日の芸術家の多くは、主張のために芸術を使っているだけで、ショックを与えることだけが目的の場合もしばしばだ。
過去の芸術家が主張をまったくしなかったわけではないが、作品の視覚的な卓越性を犠牲にすることは一切なかった。悪いのは芸術家だけではない。いわゆるアート・コミュニティにも責任がある。
この動画は2014年のもので最近のものですけど、他にも「ライト・スタッフ」の作者トム・ウルフが書いた現代アート批判の『現代美術コテンパン(The Painted Word)』 などはもう1975年もの昔の本です。
現代アートに関する論争(批判)は、はるか昔から(ほぼ現代アートが生まれたその瞬間から)続いているようです。
「不快で低俗な表現でもアートなのか」という疑問については、当のアート界の中ですら、「いやいや、不快だって低俗だってアートはアート」と自信をもってアピールできるほどのコンセンサスが得られている訳ではなさそうですね。
(混同しがちですが、「表現の自由」とはまったく別の議論です。「不快な創作でもそれは表現の自由」と言うことは言えるでしょうし)
現代アートとしての音楽
わたしは別に現代アートには全く詳しくなくて、このブログは音楽に関するブログなので、こういう話題は音楽と結びつけて考えてしまいがちです。
音楽の分野で現代アートというと、「現代音楽」という確固たるジャンルがありますよね。
現代音楽じたいは「クラシック音楽に対する新しい手法」として存在しているのですが、当の現代音楽じたいがクラシックの1ジャンルとして取り込まれるというおかしな状況になっていますね。
ただ、たとえば「ミニマルアート」といったアプローチなど、現代音楽は当時のアート界とあきらかにリンクしていたのでしょう。
John Cage『4’33” 』
ずっと後ろに写っている真っ白な背景が実は著名な画家・ロバート・ラウシェンバーグによる真っ白な絵画だった、というタネ明かしでこの動画は終わります。
この真っ白な絵画は、John Cage『4’33” 』との類似を感じずにはいれらません。まぁ教授は真っ白な絵画を思いきりディスっているのでしょうけど。
この教授の言う通りなら『4’33” 』も低俗で意味ないアートと言えそうです。
ポピュラー音楽をも飲み込む現代アート
現代音楽じたいはニッチなジャンルなのですが、もっと一般的なポピュラー音楽の世界ではどうったのか。
ジャズの世界で現代アートの影響を受けた動きとしては、既存の価値観へのラディカルなカウンターという意味ではフリージャズがそれにあたるのかも。
オーネット・コールマンの『フリージャズ』は1960年の録音です。アルバムジャケットにジャクソン・ポロックが使われていたのは象徴的です。
ビートルズが1967年にリリースした「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」というコンセプトアルバムや、ビートルズ解散後にジョン・レノンがリリースした『イマジン』でのメッセージなどは、現代アートの文脈で語られるべきなのかもしれないですね。
オノ・ヨーコさんなんて、まさに当時は現代アーティストでしたし。
※当時、共演していたオーネットとヨーコ・オノの写真
このくらいの時期が、音楽が現代アートと共鳴し、「聴く」ことよりも「読む」ことが重要視された時代だったと言えそうです。
現代アートになれなかったポピュラー音楽
動画でも指摘されているように、現代アートでは新たな表現手法が生まれてそれがメインストリームになり、その次にそのカウンターとしてまた新しい手法がアップデートされる、という連鎖を生むようです。
その連鎖のフェーズに入ると表現の手法のみがアートの目的になり、質は落ち題材も低俗になるのだと。
ただ、ポピュラー音楽は現代アートが陥ったそういう負の連鎖には堕ちることありませんでした。
現代アートとして意味を「読ませる」には音楽は不自由すぎるフォーマットだったし、音楽リスナーは「聴く」ことを止めはしなかった、ということ。
コンテキストを「読む」だけの音楽なんて単純に「つまらない」ものとして受け入れられなかったんですよね。
たとえばLou Reed「Metal Machine Music」などが、受け入れられなかった良い例なのだと思います。
※Lou Reedというと、当然ウォーホールのジャケットも思い出されますし。
びーびびー
現代アートが新たな手法に固執した理由は金のためで、そのためにどんどん表現が低俗でバカバカしいものへと変容していった、というのが動画の中の批判です。
ミュージシャンはラッキーなことに、レコードやライブにより自前で金を手にすることができたため、そこまで身を堕とす必要はなかったのでしょう。
音楽は音楽であり、アートが目的ではない
現代アートとも言えるようなラディカルな活動をしているミュージシャンはもちろんいることはいます。
パレスチナ解放というラジカルな主張を、膨大なアルバムリリースで喚起するムスリムガーゼ。
内戦下のエルサルバドルで、「父親を殺された少年の泣き声」「その父親をスコップで埋葬するために穴を掘る音」「父親のなきがらのまわりで飛ぶハエの音」をサンプリングしループさせたボブ・オスタータグ。
ターンテーブルでのコラージュを使い、記録された音の概念を問いかけるクリスチャン・マークレー(彼はいまや現代アーティストとしての方が有名)
などなど
ここであげた3人のミュージシャンは紛れもないイノベイターであり現代アーティストと言っても良いのかもしれないけど、ミュージシャンとしての圧倒的なスキルは持ち合わせていました。
彼らの音楽はインパクトがあり十分聴く価値があり、シンプルに素晴らしいのだと思います。そこが低俗でバカバカしく墜ちてしまった現代アートとの大きな違いなのです。
ポピュラー音楽の力を過大評価しすぎ
こういう現代アート的な感覚がいまの音楽に不足していることで、
「いまの音楽はあたり障りのないし刺激が足りない」
と嘆く人がいるかもしれません、確かに、それはその通りなのだと思います。
ただ、そういう意見というのは音楽のパワーを過大評価しすぎなのかも。
たとえばいまのアメリカで、LGBTQにしろ銃社会の問題にしろ、ビルボードチャート常連アーティストのメッセージで何か社会が変わったことはこれまでも無かったし、これからも無さそうです。
音楽を純粋に音楽を楽しむというのは、ある意味すごく健全な姿なのだと思いますけどね。