Webで初めてこのアルバムについての情報を読んだとき、「おおお、これは!」とテンションがあがったアルバム。
もう、このブログで紹介必須なアルバムですね。
このブログのアクセス履歴をみても、雑談投稿などに比べてアルバムレビューは閲覧が少ないですし、特にワールド系はほとんど見られないのですが、今回の投稿を読んで1人でも2人でもこのアルバムを聴いてくれたらうれしいですね。
というわけで今回は、カイロ在住の作曲家、編曲家、マルチインストゥルメンタリストのナンシー・ムニール(Nancy Mounir)がリリースした『Nozhet El Nofous』の紹介(タイトルは「魂のプロムナード」という意味らしい)
これは彼女のデビューアルバムで、20世紀初頭に活躍し今となっては忘れられてしまったエジプトの女性歌手たちを取り上げています。
その彼女たちのアーカイブ録音に、彼女自身が演奏したピアノやストリングスなどの伴奏をオーバーダビングしたアルバムとなっています。
彼女たちの歌声はモノラルで不鮮明に濁りが生じた音源なのですが、そこにムニールが現代のクリアなオーケストレーションで補強し、過去の歌声を際立たせています。
ナンシー・ムニール
このアルバムを作ったムニールの音楽キャリアは、子どもの頃に故郷アレクサンドリアの教会でピアノを弾いたのがきっかけで音楽に興味をもち、自宅の台所用品で音楽を作ったりするようになったことがスタートだそうです。
その後、彼女はバイオリンに夢中になり親に頼んでクラシック・ヴァイオリンのレッスンを受けさせてもらったそう。
その後、彼女は2004年に結成された全員が女性メンバーのメタルバンドであるMassive Scar Eraに、結成翌年の2005年にヴァイオリンで参加しています。
このMassive Scar Eraは、伝統的なエジプトのメロディとヘビーメタルとをミックスしたバンド。
このグループの音源はストリーミングで聴くこともできるのですが、もっさりしたメタルアルバムで、「伝統音楽をミックスした」と言うわりにはあまりアラブ音楽の要素も感じられず、個人的な意見ではあまり聴くべきところのないアルバムかも。
Massive Scar Eraは、メタルバンドでしかもメンバーは全員女性ということで、メンバーの家族・親戚からは目を細められ、宗教警察からは目をつけられ、民衆からの批判や嫌がらせにもあい、エジプト国内では順調な活動とは行かなかったようです。
その後シンガー/ギタリストで中心メンバーだったシェリーン・アムル(Cherine Amr)がカナダに移住してソロ音楽活動を続けるなど、Massive Scar Eraは自然解体していったようです。
20世紀初頭の女性歌手たち
このアルバムでは以下のような女性歌手が取り上げられています。
「タアラブのスルタナ」と呼ばれるモーニラ・エル・マハデヤ(Mounira El Mahdeya)
彼女は20世紀初頭のエジプトを代表する歌手として知られ、女性が舞台で演技することを禁じていた当時のエジプトの伝統に反し、初めて舞台に立ったイスラム女性。
ハヤト・サブリ(Hayat Sabry)は、サイード・ダーウィッチ(エジプトポピュラー音楽の父と呼ばれエジプト国家を作曲した人)のミューズとして、数多くの名曲をうみだした歌手。
その他、アブデル・ヘイ(Saleh Abdel Hay)、エル・バンナ(Abdel Latif El Banna)、ファティマ・セリー(Fatma Serry)といった、当時を代表する歌手たちの歌が収められています。
1932年
ただ、彼女たちのような20世紀初頭を彩った歌手は、しだいにエジプト社会から忘れ去られていきます。
ハヤト・サブリなどは(ダーヴィッチの死後)表舞台から消え、死んだと思われていたそうです。
ひとつには第二次世界大戦があったことで、その前後で社会的・文化的な分断があったことも理由のひとつだろうと思います。
もうひとつ大きな理由は、1932年に行われた第一回アラブ音楽国際会議の影響があったと言われており、今回のアルバムについてのインタビューで、ムニールも強調しています。
1932年にエジプトのカイロで催されたアラブ音楽会議は、音楽や文化に造詣の深かった当時のエジプト国王 フアード一世が主催したもの。
会議には、アラブ諸国の音楽家や音楽学者のみならず、バルトークやヒンデミットのような西洋クラシック界のビッグネームも招待されたそう。
この会議では、伝統的アラブ音楽の調性・旋法の体系化とともに、西洋音楽をどの程度受け入れるか(西洋楽器の使用・和声など)といった議論が行われました。
また、それまで口伝によって受け継がれていた曲についても録音や採譜が行われたそうです。
その結果、それまでの楽器ごとに調律を行うことで使われていた微分音は、1/4の微分音に統一されたようです。
それはまるで、クラシック音楽の世界で、バッハの時代に(諸説あり?)に平均律をもとにした音階に統一されたくらいの、アラブ音楽にとっての大きな転換期となりました。
この会議の目的は、アラブ音楽を西洋人の耳になじむようにし、微分音による調弦を習得する難しいプロセスを簡略化するための標準化だったことは明らかです。
その結果、エジプト音楽が本来持っていた微分音の豊かな表現が消え、その音楽性が大きく制限されることになったのです。
うーん、この「アラブ会議」の話、わたしが持ってるアラブ音楽について書かれた本を改めて読むとちゃんと書かれていたのですが、はっきり言ってすっかり忘れていました(小声)
大規模な国際会議だったため、当時の会議の音源などはYouTubeなどでも簡単に聴くことができますね。
わたしたちがいま現在、エジプト音楽と言って頭に浮かぶ、たとえばウム・クルスームやムハンマド・アブドゥルワッハーブは、この1932年を境に1/4微分音へと転換した後の音楽家ということになります。
アラブ音楽の「タアラブ」という用語があり、「陶酔」「エクスタシー」といった意味があるようです。
このアルバムに収録されているモーニラ・エル・マハデヤが「タアラブのスルタナ」と呼ばれていたように、20世紀初頭の歌手たちは(時に露骨な歌詞を用いて)恋愛の歌を歌うことも多かったそう。
そんな彼女たちの歌は、1932年のアラブ会議で議論されていたような「クリーン」な音楽とは見なされず、誰もこの会議には招待されなかったそうです。
ムニールは、この20世紀初頭の歌手たちの音楽を聴いた時、ウンム・クルスームのような広く知られている音楽よりもずっと共感できる音だと思ったそうです。
モーニラ・エル・マハデーヤのラブソングに出会い、初めてアラビアのラブソングを好きになったそう。
ムニールは、このアルバムに収録されている録音と歌手は、このアラブ会議以前の微分音による作曲の卓越性や非標準的なリズムの豊富さを示している、と言います。
彼女は5年の歳月をかけて歌手のアーカイブ資料と録音を復元し、欠落してしまったパートを再構築するために新たに独自の音楽を作曲しました。
オリジナル曲の上にムニールの自作曲が自然なかたちでブレンドされており、どれがオリジナルでどれがムーニルの曲なのかわからなくなるほどです。
『Nozhet El Nofous』は、ムニールが「ゴースト」と表現する、アラブ会議を境に音楽界から排除された歌手たちとの音楽的対話であり、彼女たちの声を現代に蘇らせる試みなのです。
それはもはや単なるアートにとどまらず、歴史の一片そのものともいえる作品なのです。
レビュー
という訳で、このアルバムは背景となる情報がかなり多くて紹介が長くなりました。
アルバムを聴くと、収録されている当時の歌手の歌声はかなり不鮮明で、まるで古いラジオから聴こえる歌声のようです。
ただ耳障りなノイズなどはかなり取り除かれており、「これはそういう音質なんだ」と割り切って聴けば、そこまで気になりませんでした。
このアルバムに収録されている歌は、メリスマティックな歌声も含めてテクニック的にも高度で、かつ情感豊か。
ムニールがオーバーダビングした部分も歌の雰囲気を損なうことなくて、ストリングスも入りゴージャスなのですけど、アラブ音楽にありがちなウェットな感じではなく、文句なくすばらしいです。
これはアーカイブ的な価値だけで語るべき作品ではないですね。
ムニールが言うように、このアルバムで聴ける歌には、いわゆるアラブ音楽特有の(たとえばクルスームの歌に聴けるような)ある種の厳格さやストイックさは無いのかもしれません。
ただ、エジプト音楽は当時の政権の意向やイスラム宗教観などの影響を強く受けているので、こういう年代的な比較をするのは音楽家にとってはあまりフェアじゃないかもしれませんけどね。
トリビアですが、ムニールはこのアルバムで使用している楽器は全て自分で演奏したそうです。
ある曲にテルミンが必要だと感じたら、テルミンの演奏法を学ぶことからはじめたそう。
まるで、ジム・オルークの『THE VISITOR』みたいですね。
エジプトでは少し変わった楽器のミュージシャンを見つけることが困難なのかもしれないですが、彼女がこのアルバムにかけたこだわりがわかるエピソードだと思います。
収録曲
1.Taala Ya Shater (with Naima El Masreya) 03:34
2.Khafif Khafif (with Saleh Abdel Hay) 03:41
3.Matkhafsh Alayya (with Abdel Latif El Banna) 02:48
4.Baad El Esha (with Mounira El Mahdeya) 05:57
5.Wallah Testahel Ya Albi (with Hayat Sabry) 03:07
6.Ya Einak Ya Gabayrak (with Mounira El Mahdeya) 05:36
7.Ana Bas Saktalak (with Fatma Serry) 04:08
8.Gannentini (with Zaki Mourad) 05:23