今回のブログは、アメリカのプロバスケ(NBA)の伝説的なプレイヤー、カリーム・アブドゥル・ジャバーについて
カリーム・アブドゥル・ジャバーって知ってますかね?
このブログはいちおう音楽メインなので、彼の名前を聞いても「誰それ?」という感じかもしれませんが、そういう方はブラウザバックしてもらった方が良いかも。ただ、ちゃんと音楽の話題もありますよ。
ジャパーの名前は、NBAファンなら誰でも知っていると思います。スキンヘッドにゴーグルを着けた彼の姿はおなじみ。
日本のプロ野球でいうと王さん、長嶋さんクラスのレジェンドです。
6回のNBAチャンピオンに6度のMVP、20年の現役生活で19回(!)のオールスター選出。
43歳で引退するまでずっとトップレベルでプレイしたのですが、これは当時ですら驚異的なことです。
そして彼はNBAの歴史上、通算でもっとも得点をあげたプレイヤーでもあります。※2023年にこの記録はレブロン・ジェイムズによって破られることになります。
ジャバーはスコアラーという訳ではないのですけど、活躍期間が長かったことが通算得点記録を伸ばした大きな要因ですね。
ジャバーのプレイは大学(UCLA)時代から圧倒的で、彼のゴール下でのプレイがあまりに止められなかったためNCAAはダンクを禁止したほど。
このルール改正から生まれたミドルレンジからのフックシュートは”スカイフック”と呼ばれ、最高点から直接落ちてくるためバスケのルール上ディフェンダーは触ることができず、文字どおり「誰も止められない」プレーでした。
他にも、現役当時ロサンゼルス(LAレイカーズ)のチームにいてハリウッドも近いことから映画に主演したりも。ブルース・リーの映画にラスボスとして出演したり、レスリー・ニールセン主演のコメディ「フライング・ハイ」にチョイ役で出演したりもしていましたね。
ブルース・リーとの交流は古く、UCLAの学生時代にリーから武道を学んでいたそうです。
ちなみにタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で描かれるリーの姿が議論になりましたが、当時のリーを知るジャバーも「ぜんぜん違う」と言っていたようです。
カリーム・アブドゥル・ジャバー&ジャズ
彼は大学で歴史を学び、引退後はアフリカ系アメリカ人の歴史やカルチャーを扱うライターとして10冊以上の本を出版し、タイム誌などに寄稿するといった活動を行っています。
わたしはNBAは好きなのでとうぜんジャパーの名前は知っていたのですが、彼のこういう面はまったく知りませんでした。
彼はもともとはニューヨークで生まれで、ジュリアード音楽院で学んだトロンボーン奏者の父親の影響から、子どもの頃から熱心なジャズファンだったそうです。
父親は警官として働く一方で、パートタイムのミュージシャンとしても活動していたようで、セロニアス・モンクやマイルス・デイヴィスといった人たちと共演したこともあるとか。子ども時代のカリームも、当時のジャズの偉人たちと会ったりしていたそうで、ジャズファンにとっては夢のような環境ですね。
カリーム・アブドゥル・ジャバーの情報はwebでいくらでも手にすることができますが、ジャバーとジャズの関係について書かれたweb記事は全くといってヒットしませんね。
そもそも「カリーム・アブドゥル・ジャバーとジャズ」に興味がある人がどれだけいるのか疑問ですけど、このブログ投稿がそういう人に読まれたらうれしいです。
そのジャバーですが、子ども時代から家では当然のようにジャズが流れ、親のすすめで自身もピアノをはじめたけどすぐに挫折したそうです。
「ピアノの練習は苦痛だった。レッスンを受けるのはまるで歯医者に行くみたいなものだった。ただ両親はレッスンを無理強いしなかったのでピアノはそのまま止めてしまった。高校生になってピアノをやめたことにひどく後悔したのだが」とのこと。
ジャバーはのちに
「ジャズは自分の人生のサウンドトラックだ」と言い、「ジャズが自分自身をより良い人間、バスケットボールプレイヤーにしてくれた」
とまで言い、ジャズフェスでMCをやったりとジャズ関連での仕事も多いみたいです。
そんな彼が、自身のフェイバリットアルバムを挙げている記事がありました
プレイリストはこちら
マイルス、コルトレーン、ロリンズ、モンクといった人たちの有名盤が並んでいて、ベタと言えばベタなセレクションですね。
ジャバーは彼らの全盛期にみずからライブに足を運んだだけではなく、個人的に交流もあったようですね。NBAで活躍したスーパースターだったということもあるのでしょう。(アメリカの一般市民にとっては、ジャバーの方がジャズミュージシャンたちよりもおそらく有名人だったでしょうし)
彼は最近ではウィントン・マルサリスのイベントでジャズに関する講演もしていて、そういう縁からなのかこのプレイリストにはウィントンの『Black Codes』が入っていたりしますね。
イスラムへの改宗
カリーム・アブドゥル・ジャバーという名前はイスラム名で、もともとの名前であるルー・アルシンダーから改名しています。
改名に関して、彼自身のことばによると
「ルーからカリームへと名前を変えたことは、ショーン・コムズがパフダディ、ディディ、P.ディディと変えたように、単に有名人が自分のブランドを変えることではありません。ハート、マインド、ソウルを変えることなのです。」
「私はかつてはルー・アルシンダーであり、白人のアメリカが期待していたことを反映していた。今の私は、アフリカの歴史、文化、信念の現れであるカリーム・アブドゥル・ジャバーなのです」
とのこと。
ジャバーがイスラムに初めて出逢ったのはUCLAの1年生だった1965年。
ジャズの世界ではコルトレーンが『Ascension』や『A Love Supreme』をリリースしたりした年ですね。
また、公民権運動やそれに対抗する白人社会との対立など混沌としていた時代です。マルコムXが暗殺されたのもこの年。
そのマルコムX(とネーション・オブ・イスラム)に代表されるように「キリスト教は白人の宗教だ」という考えはかなり広く広まっていたようで、イスラムに改宗する人も多かったようです。
ジャズミュージシャンにもモスリムとなった人は数えきれないほどいます。たとえばアブドゥーラ・イブラヒムとかアーマッド・ジャマル、ユセフ・ラティーフなどなど。
ジャバーも当然のようにマルコムXの自伝を読んだり強い影響を受けたと公言していますが、直接的にはネイション・オブ・イスラムには参加してはいません。(「政治的すぎる」というのが理由だったようですね)
ジャバーは、学生当時にハンマス・アブドゥル・カハリスというイスラム指導者に会い、独自のイスラム実践を行っていったそうです。
彼の指導の下、正式に改宗し名前を変えたのはプロ入り後の1971年になります。
その後コーランを学ぶにつれ、徐々にカハリスの教えに同意できない部分ができたため、1973年には彼の元を離れ独自のイスラム実践をおこなっていったようですが(この辺りの流れはまるでマルコムXのよう)
こうしたジャバーのイスラム改宗の経緯はアル・ジャジーラのインタビューが詳しいです。
オリンピック不参加
バルセロナ五輪のドリームチーム以降、オリンピックにはプロのNBA選手が参加していますが、それ以前はアマチュアのみで主に大学バスケ選手が出場していました。
1968年のメキシコオリンピックの際にジャバーも当然のように選手候補になったのですが、彼は出場を拒否してしまいます。
「自分たちの権利をまともに扱わないアメリカのためにプレーはできない」というわけです。
また、国際オリンピック委員会のエヴリー・ブランデージ会長が、1936年のベルリンオリンピックで、ユダヤ人選手が金メダルを獲得してヒトラーに恥をかかせないようにと2人のユダヤ人選手出場させなかったことへの嫌悪感も理由のひとつだと発言しています。
そもそもメキシコオリンピックは、アパルトヘイト下の南アフリカ共和国の参加をめぐってボイコット騒動が起こるなど人種問題が大きく影を落とした大会でした。
いまよりオリンピックがずっと政治的だった時代。
メキシコオリンピックと言えば、男子200メートルで優勝したアメリカ人選手トミー・スミスと3位のアメリカ人ジョン・カーロスが表彰台の上で拳を突き上げ、観客から大ブーイングを浴びた大会でもあります。
トミー・スミスとジョン・カーロスはIOCから帰国を命じられ、アメリカに戻ってからも激しいバッシングを浴びたのですが、同じくオリンピックに参加しなかったジャバーも(殺害予告など)激しいバッシングにさらされることになりました。
黒人指導者が日常的に虐殺されていた時代に、世間からの殺害予告は単なる脅しではなくまさにリアルな恐怖だったのです。
BLM運動の際に、警官の暴力へ抗議して国家斉唱の際にひざをついたNFLのコリン・キャパニック選手の行動があらためてクローズアップされましたが、ジャバーもまた社会の不正義を訴えることで世間のバッシングにさらされる、まさにキャパニックのような存在だったのです。
ジャバーは引退後に、執筆や講演活動の他に「スカイフック財団」という教育など子供たちへの支援を行うプログラムをはじめています(ネーミングはアレですが、、)
財団の活動資金のために現役時代のチャンピオンリングやジャージをオークションにかけたりもしていました。
そうした活動から、NBAではその年に最も社会貢献活動を行った選手に贈る賞に「カリーム・アブドゥル・ジャパー・アワード」という名称を付けています。
カリーム・アブドゥル・ジャバーが語るBLM
ジャバーはこれまで60年間にわたり社会活動を行ってきており、2020年に起きたBLM運動については彼の言葉がわたしにとっては最もリアルで説得力のあるものでした。
リンクと特に印象的なコメントを抜粋しますので、興味のある方はリンクから全文を読んでいただきたいです。
「社会改革には、人々の善良さに対する深い希望と信頼がなければ成り立ちません。そしてここ数日、私の希望は報われている。市や州の政府は警察改革を実施し、民間企業はより包括的な政策を立案し、メディア企業は人種差別や女性差別的な行動をとった役員や俳優、作家を解雇している。有名人や政治家は、Black Lives Matterやその他の進歩的な組織を支持する公の声明を発表しています。スポーツ団体(NFL)は、過去の排除行為について謝罪を申し出ています」
「しかし、私は以前にもこのような希望を感じたことがあります。そしてこの国での希望の涙は、しばしば不満と怒りの涙に変わっていった」
「公民権運動家は、国民の良心をほっこりとさせるために活動しているわけではありません。”万人への平等”というスローガンは、懐古的なスローバックでもない。これは生死の問題です。医療へのアクセスが偏っていること、子供たちが平等な教育を受けられないこと、それゆえに経済的な将来の安全性を主張できないことが問題なのです」
「長い間にわたって社会運動に携わってきた私たちは、平等な権利のための戦いは生涯のコミットメントであり、夏の余暇に済ませることができるような仕事ではないことを知っています。私はこれまでの人生を通じて、怒り、抗議、政治的な約束のサイクルを見てきました。そして、別の恐ろしい出来事が再び私たちの注意を引くまで、静かに現状維持に戻っていく」
「確実な進歩とはいえそれは約束されていたものには程遠い。そして私たちは、活動を再び表に引っ張り出すために、(フロイド氏の死のような)次の恐ろしい行為を待っている状態だ」
「人種差別がアメリカの生活のあらゆる面に蔓延していることを人々に説得しようとするのは、疲れるし、もどかしいものです。著名な科学者による何百もの研究を信じようとしない彼らの揺るぎない姿勢は、消毒剤で手を洗うだけで病院での死亡者数が激減することを発見し、何百万人もの命を救ったハンガリーの医師イグナズ・ゼンメルワイス博士のことを思い起こさせます。医学界のほとんどの人たちは、彼の結論を否定しました。彼が正しいという証拠がどんどん増えてきていたにもかかわらず。彼は最終的に精神病院に収容されましたが、そこで看守に殴られ、14日後に亡くなりました」
「今から90日後、アフリカ系アメリカ人はどこにいるのだろうか?国が再開し始め、抗議がより小さく、その後消えていくとしても、彼らの目の前の起こったことを信じ続けるのでしょうか?COVID-19の第二波、潜在的なワクチンとワクチン否定者、トランプ大統領の妄想、ジョー・バイデンの失言と有名人の失態で見出しが支配されるようになったとき、人種差別についての言及はまだ残っているのでしょうか?そして社会に本当の変化は起きているのでしょうか?」