NYタイムスは新聞内に音楽トピックを扱うコーナーがあるようで、場所がら当然ジャズの話題を取り上げることも多いです。
先日、少し気になる記事を見つけたので今日はその話題。
「ジャズはこれまでは常にプロテスト音楽だった。果たして今でもそうなのか?」
この記事もBLMや制度的差別(Systemic Racism)といったいまの状況を前提に書かれていています。ちなみに寄稿者のGiovanni Russonelloさんという人はけっこう若い白人男性です
記事の中身を意訳すると、、
ニューオリンズで生まれたジャズは、常にアメリカ黒人の解放と自己決定について演奏するプロテスト音楽だったが、1960年代後半から全国の大学がジャズを「クラシック音楽」として歓迎しはじめた(1980年代のウィントン・マルサリスの登場が決定的にその動きを後押しした)
だが、大学カリキュラムに組み込まれる中で、「古いジャズ」を正当化することでジャズは死に、過去の黒人文化からも切り離されていった。結果として大学でジャズを学ぶ黒人は極端に少なくなっている。ニューイングランド音楽院のジャズ学科では5人の学生と6人の教員しか黒人はいない。
ケンドリック・ラマーの「Alright」がBLMのアンセムとなっているが、この曲を作っているのは、テラス・マーティンやサンダーキャットといった、大学機関でジャズを学んでいる訳ではない(「ストリート」から生まれた)ミュージシャンたちで、彼らのようなミュージシャンの中にジャズのプロテストは生き残っている
大学のカリキュラムも、文化、歴史、芸術の統合的なプログラムを教えるべきで、そういった試みもいくつかみられる。
その一つは、ハーバード大学でピアニストのヴィジェイ・アイヤーが設立した(ほぼワールドワイドなバックグラウンドを持つ女性教員によって教えられる)博士課程
もう一つは、ドラマーのテリ・リン・キャリントンがアンジェラ・デイビスなどの活動家とともに設立したBerklee Institute for Jazz and Gender Justiceというプログラム。
というような内容が書かれています。
コメント欄にあふれる反論
「テーマは面白いけどツッコミどころ満載だな」と思って読んでいたのですが、案の定というかコメント欄を見ると反論の嵐で「あぁやっぱりな」という感じでした。
「おまえは自分の主張のために歴史をねじまげている。何もわかっちゃいない」みたいなコメントもあったし。
この記事もひとつの意見としてそれはそれで良いのですけど、語られているテーマについてはいろいろ考えさせられる記事ではあります。
BLMの中でのプロテスト・ソング
かつての公民権運動の時代には、その運動に参加することを表明することじたいが社会的なリスクを負う行為だったのだと思います。職を失うことや、もっと直接的な暴力など。
デモに参加しプロテストソングを歌うことも同じようなリスクを伴う行為だったはず。
ただもう当時とは状況は違うので、音楽を歌い演奏することはプロテストとしてあまり意味はないようにも思いますね。ノーリスクですし。
プロテストとしての音楽は役割を終えた、ということでしょうか。デモの盛り上げソグくらいな扱われ方なんじゃないでしょうか。
べつに揶揄している訳ではなくて、かつてミュージシャンがプロテストソングを歌わざるを得なかった頃とは社会状況が違うのだし、BLMが受け継ぐべきはプロテストソングを歌った人たちの精神であってプロテストソングを歌う行為そのものではない、ということなのだと。
ジャズを教える大学は悪なのか
もうひとつ、大学のようなアカデミアがジャズを変質させてきた、という点。
記事中にもピッツバーグ大学のジャズ研究プログラムで学長を務めたジェリ・アレンと、彼女の死後引き継いだフルート奏者のニコール・ミッチェルが出てきますが、ジャズが大学のような公的機関で教えられるようになったのは1990年代くらいからなのかな?ブランフォード・マルサリスもノースカロライナ中央大学で教えていたりしますし。
より楽理的なことを教えているだろうニューイングランド音楽院などもあるのでしょうけど、今ではジャズは教育機関で学ぶことが当たり前になっています。いま活躍しているジャズミュージシャンのほとんどがそういったキャリアを持っているはず。
そもそもジャズは大学で教えられるような種類の音楽ではない、と思っている人は多いのかも。
記事中のコメント欄でヘンリー・スレッギルの言葉が引用されていました。
College graduate: “I have a degree in jazz.”
(音楽大学の卒業生: “わたしはジャズの学位を持っていますよ”)
Henry Threadgill: “No you don’t.”
(ヘンリー・スレッドギル:”いや、持っていないよ”)
というもの。
菊地成孔さんもどこかで学校でジャズを習うことに否定的なコメントをしていた記憶がありますけど、なにか大学で先生から学べない「なにか」があって、それがジャズミュージシャンには重要なのだということなんでしょうかね?
プレイヤー目線からするとそうなのかもしれないですけど、ジャズファンにはそう信じている人は多そう。「学校で教わったジャズミュージシャンの演奏なんて退屈だ」みたいな。
ただジャズは昔からもともと黒人の中でも、かなり(クラシック音楽的な)楽理的な素養のある人が演奏する音楽だったみたいですけどね。
クラシック音楽を学んでいたような黒人が、クラシックの世界ではポジションが無いためにジャズを演奏していた、みたいな。マイルスとかもそうですけど、割と裕福な出自をもつジャズミュージシャンの方が多かったんだと。
楽器店のショーウィンドウのトランペットを毎日眺めている黒人少年が、それを見かけた町の老ミュージシャンからジャズを学ぶ、なんてのはただのファンタジー。
そういうジャズのステータスの低さも、ナイトクラブで飲食しながらBGMとして聴かれてきたし状況にもジャズミュージシャンは不満を持ってきたのでしょう。
ビル・エヴァンスが「ワルツ・フォー・デビー」に「聴衆のはなし声がうるさくてイヤだ」と言ったのも、オーネット・コールマンが「わたしの音楽はイスに座って黙って聴いてほしい」と言ったのも、そういった不満の表れ。
ジェリ・アレンなどが行った大学でジャズを教えるという試みは、ジャズが「大学で教えるほど価値のあるアート」であることを証明しようとした試みなのであって、言ってみればまさにBLMの精神にもとづいたものだったと思うのですけどね。
そういった地道で継続的な努力でジャズはいまの社会的なステータスを獲得してきたわけで、それは権威主義などとはまったく違う話なのだと思います。
ヴィジェイ・アイヤーやテリ・リン・キャリントンのような意欲的な試みも、新しい試みというよりもジェリ・アレンなどの地道な活動が実を結んできた成果だと思いますけどね。かつてはできなかったことが徐々にできる環境になりつつある、という表れなのだと。
ジャズは誰のものなのか?
そんな中、この記事の中で指摘されている「ジャズが学術機関で教えられているいま、黒人の数が減ってきている」という点は重要かも。
教育機関として誰にでも門戸を開いた、(外国人などの入学が増え)相対的に黒人の比率が減っているのかもしれないですね。
記事中では大学でジャズを教えることのネガティブな側面として取り上げているのですが、どうなんでしょうね。
ジャズを学びたい黒人のミュージシャンが入学に不利になっているようなら別ですが、
単純に音楽の才能のある若い黒人ミュージシャンがオーセンティックなジャズを好まずに他のジャンルに流れていっているだけかもしれないですし。(テラス・マーティンやサンダーキャットがオーセンティックなジャズとはとても言えないでしょう)
そもそもビックス・バイダーベックやビル・エヴァンスの例を出すまでもなく、ジャズが黒人だけのものだったというのは間違い。。
むしろコール・ポーターやジェローム・カーンが書いた曲を、マイルスやコルトレーンがジャズという芸術に昇華させたことは、ジャズがマルチカルチャーな芸術である証で、それは称えるべきことなのでしょう。
ジャズは、パーフェクトではないまでも、実社会では成し得ないようなレベルで人種の壁を乗り越えてきた世界とも言えます。それは、人種だけではなく、近年の女性ジャズミュージシャンの多さにも表れています。
人種や性別などのボーダーを乗り越えてきたのがジャズの歴史であるなら、その結果として黒人生徒が少ないことはポジティブにとらえても良いような気もします。
たとえばアメリカバスケットボールの世界でも、黒人のヘッドコーチが増え、黒人オーナーがいて(まあマイケル・ジョーダンのことですけど)、BLM的な見方でよくよく見てみれば良い方向に改善はしているのだと思います。H・ロスリングの「ファクトフルネス」的な話で、ゆるやかな改善はなかなか目につかないのですけど。
同じようにジャズの世界も、黒人の権利向上に向けて良い方向へ変わっていっていると思いますよ。ジャズファンとしてそういう姿を見るのはすごく勇気づけられますよね。